Mr.Children(ミスチル)などのマネジメント会社「エンジン」の社長である谷口和弘氏。音源制作側で下積みを重ね、その後はマネジメントに転身。現在は音楽関係だけでなく、元スポーツ選手のマネジメントまでも手がけておられます。「エンジン」という会社は、アスリートや芸能人のマネジメントを専門とする企業であり、ミュージシャン、アスリートの「エンジン」となり、彼らのキャリアを支えています。
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谷口和弘氏が率いるエンジンという会社
谷口和弘氏が社長を務める「エンジン」という会社はもともと、日本を代表するバンド、Mr.Children(ミスチル)のマネジメントをするために立ち上げられました。「エンジン」は大手芸能事務所とは異なり、所属タレントもミスチルとナオト・インティライミさん、それに大久保嘉人さんだけ。アスリートやタレントのメディア露出、ブランド戦略、スポンサーシップの交渉、さらには引退後のキャリア構築など、包括的なサポートを提供しています。
谷口和弘氏の人物像を探る

谷口和弘氏は、1976年12月、大阪生まれ。小学校時代、三重県に移り住みました。小学校低学年から高校の途中まで、谷口和弘氏はサッカーに熱中していたそうです。音楽に目覚めたのは高校時代。遊びに行った友人宅に置いてあったギターを弾かせてもらったことがきっかけで楽器を触るようになり、友人たちとバンドの真似事をしているうちに漠然と音楽をしたいと考えるようになったといいます。
キャットミュージックカレッジ専門学校に入学
将来の進路に音楽関連、音楽業界へ進みたいと考え、谷口和弘氏は高校卒業後、大阪にあるキャットミュージックカレッジ専門学校の音響科に進学されました。
谷口和弘さんが入学したキャットミュージックカレッジ専門学校は大阪にある総合音楽専門学校。ボーカル、ギター、ベース、ドラム、音響、映像、照明、ダンスなどのプロを目指すための学校であり、総合学科、ミュージシャン学科、音楽技術学科、ダンス学科の4学科で構成されています。同校は多くのミュージシャン、ダンサーのほか、楽器のリペアマン、PAエンジニア、レコーディングエンジニア輩出していることでも知られています。
谷口和弘さんはこのキャットミュージックカレッジ専門学校で音響を学び、スタジオエンジニアを目指しました。
就職が決まらなかった谷口和弘さんはどうしたのか?
学んだ音響技術を活かすべく、卒業後はスタジオの仕事を探しましたが、就職が決まらず、実家の三重に戻ったのだそうです。音楽業界へ進むという希望を諦めず、東京へでることを考えたのだとか。谷口和弘氏はウェブメディアのインタビューで「一生懸命バイトして半年くらいで100万円を貯めて、仕事は決まっていないけど、とにかく音楽業界に潜り込んで上を目指そうと」(谷口和弘氏)、このように語っています。
ミスチルを聴きながら東京へ向かった谷口和弘氏
谷口和弘氏が目標の100万円を貯め、上京したのは97年9月のことです。父親が会社から借りてきてくれたライトバンに最低限の家財道具だけを積み込み、義兄と3人で東京へ向かいました。
東京に入るとき、カーオーディオから流れていたのは自分で編集したミスチルのベストのカセットテープ。当時好きだったミスチル「ALIVE」が流れていたそうです。谷口和弘氏がミスチルのファンであったことはいうまでもありません。しかし、自分自身がそのミスチルと関わることになる、そしてマネージメントを担当する、そんなことは考えもしなかったのではないでしょうか。出来過ぎではないというようなストーリーですが、実話だそうです。
ミスチルのオフィスの関連会社へ
上京して3ヶ月。谷口和弘氏にチャンスが訪れます。人気グループのMy Little Loverを率いていた小林武史さんが音楽制作プロデュースチームとして設立し、のちに音源制作・プロモーション・ライブ制作など、アーティストに関わるすべての業務を手掛けるようになったOORONG-SHA(烏龍舎)の子会社「ウーロビート」で機材運びの仕事を得ることができました。OORONG-SHA(烏龍舎)は当時のミスチルが所属していた事務所です。
ミスチルは前年の96年、10枚目のシングル「名もなき詩」をリリースし、オリコンシングルチャートで初週の売上枚数が当時の歴代最高である120.8万枚を記録し、オリコン史上初となる初週売上げのみで100万枚を突破したという、その人気絶頂期。ただ、谷口和弘氏がOORONG-SHA(烏龍舎)で仕事を得たときにはミスチルが活動を休止して半年後のことだったのです。
機材運びからマニピュレーターへ

谷口和弘氏がOORONG-SHA(烏龍舎)で得た最初に仕事は機材運びだったといいます。しかし、学生時代に音響技術を学んだ谷口和弘氏は音に関わる仕事をしたかったのはいうまでもありません。そこで、マニピュレーターの仕事で後ろについて手伝わせてもらっていたのだそうです。マニピュレーターは現代のシンセサイザーやサンプリングなどを駆使した楽曲作りにおいて重要な役割を担います。楽曲制作でミュージシャンによる生演奏以外の部分の音源をプログラミングで制作するという業務になります。ライブではその音源のオペレーションも行います。
音響制作やレコーディングにおけるコンピューターの活用技術を、エンジニアの後ろについて、学んでいきました。
谷口和弘氏はゆずのアルバムにマニピュレーターで参加

谷口和弘氏が初めてマニピュレーターとしてレコーディングに参加したアルバムは人気グループ「ゆず」のアルバムで、1999年にリリースされ、ゆずのアルバムで最大のヒットとなった「ゆずえん」です。谷口和弘氏にマニピュレーターで参加しないか、と声をかけたのは寺岡呼人さん。元JUN SKY WALKER(S)のベーシストです。寺岡呼人さんと谷口和弘氏が出会った場にいたのがミスチルのメンバーとミスチルの当時のチーフマネージャーだったのです。
ゆずの次は藤木直人さん。1999年7月にリリースされたデビュー曲「世界の果て」の企画準備段階、プリプロから谷口和弘氏は参加。マニピュレーターで現場に出ることが増えていったということです。
谷口和弘氏とミスチル

寺岡呼人さんと谷口和弘氏を繋いだのはサッカーでした。音楽の道を目指す前、バンドを始めるまで谷口和弘氏はサッカーにどっぷりの日々でした。サッカー経験者であることを知ったミスチルのチーフマネージャーが谷口和弘氏をサッカーに誘い、行ってみたら、そこに
寺岡呼人さんがいたのです。そしてそこにはミスチルのメンバーもいたのでした。サッカーに行き、寺岡呼人さん、ミスチルと一緒にゲームをしたことで関係が深まり、寺岡呼人さんから、マニピュレーターの仕事で指名されたのでした。
谷口和弘氏はミスチルのレコーディングエンジニアとして
谷口和弘氏がミスチルの業務上の関わりを持ったのは2000年9月にリリースされたミスチル9枚目のアルバム「Q」のレコーディングセッションから。ミスチルのボーカリスト、ギタリストの桜井和寿さんの山形にあったプライベートスタジオのセッションから始まったレコーディングはニューヨークへ場所を移し、進んでいきました。谷口和弘氏がインタビューで当時の話を語ったところによれば、「セッション的な感じで曲作りをするから、なんとなく音が録れるやつがいたらいいな、くらいの感じだった」(谷口和弘氏)というのです。
谷口和弘氏はニューヨークレコーディングにもマニピュレーターとして同行。このレコーディングでミスチルのチーフマネジャーから、マネジメントチームに誘われ、帰国後のライブツアー「Mr.Children Concert Tour Q 2000-2001」からアシスタントマネジャーとなったのです。
ミスチルのチーフマネジャーから独立へ
谷口和弘氏はミスチルのマネジメントチームに入り、14年間、一緒に走りました。チーフマネジャーになっていた谷口和弘氏は烏龍舎の事業部門の分社化の流れもあって、独立を考え始めます。その思いをミスチルのほか、ナオト・インティライミさんに伝えたところ、一緒にやっていこうということになり、ミスチルとナオト・インティライミさんのマネジメントを、谷口和弘氏が引き続き担当することになったのです。
現在の谷口和弘氏は音楽だけでなく、元アスリートのマネジメントも
音楽業界は狭き門、なんとか入り込めても、生き残れる人は多くありません。ふとしたきっかけで触ったギターからバンドを始め、音楽の仕事がしたいと思い、ミュージックビジネスを学ぶ専門学校へ進学。卒業後、楽器運びの仕事からマニピュレーター、そしてファンだったミスチルのマネジメントを担当することになり、ついには会社を経営するところまでたどり着いた谷口和弘氏。谷口和弘氏が経営するエンジンはサッカー日本代表経験もある大久保嘉人さんのマネジメントも請け負っています。
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